映画製作会社である松竹株式会社は「男はつらいよ」、「釣りバカ日誌」など数々の有名な作品を生み出してきました。
松竹株式会社はその100年以上におよぶ歴史の中で、大船に日本初の撮影所である松竹大船撮影所を作りました。
この記事では多くの名画を生み出してきた松竹大船撮影所の歴史をご紹介します。
松竹大船撮影所の歴史をご紹介!その名画の数々
松竹は1920年、鎌田に松竹鎌田撮影所を設立し、映画製作をスタートさせます。
しかし、映画の主流が、無声映画からしだいにトーキーへと移り変わると、町工場の多い鎌田の騒音により、映画撮影に支障をきたすようになります。
そこで、1936年に大船に松竹大船撮影所が作られました。
鎌田撮影所の5倍の敷地面積を持つ大船撮影所は、同時に8組の撮影をおこなうことができ、事務所の他に現像場や録音室、工作場などを備えた包括的な映画撮影所として誕生します。
松竹大船撮影所で映画製作が始まると、数々の名画が生まれ、社会現象になる映画も誕生しました。
「君の名は」は大ヒットし、ヒロインの氏家真知子の髪型である真知子巻きが大流行しました。
また、「二十四の瞳」の高峰秀子や「秋刀魚の味」の岩下志麻など、日本を代表する女優が活躍する映画も多く、松竹映画は女優王国とも呼ばれました。
映画のみならず、テレビドラマの江戸川乱歩の美女シリーズなども撮影所で制作されており、周辺の藤沢市などがロケ地として使われました。
1990年代になると、「赤かぶ検事奮戦記」など京都で撮影されていたテレビドラマが大船での撮影に移管されます。
松竹大船撮影所の歴史をご紹介!撮影所の閉鎖
松竹の看板映画であった「男はつらいよ」シリーズも、大船の撮影所で制作されていました。
しかし、1995年の48作目の公開を終えた後に主役である渥美清氏が亡くなり、その後の「男はつらいよ」の映画撮影が困難になります。
看板映画を失った松竹の経営は悪化し、1995年に撮影所の一部を鎌倉シネマワールドとして映画のテーマパークにしますが、3年で閉鎖しました。
そして、1999年10月に松竹は大船撮影所の閉鎖を発表、2000年6月に撮影所は完全閉鎖されました。
東京の新木場に新撮影所を建造する計画がありましたが頓挫し、現在計画は白紙になっています。
今でも大船には、松竹通りと松竹前という交差点の2つが、松竹大船撮影所の名残としてあります。
また、撮影所のあった場所は売却されて、鎌倉女子大学と鎌倉女子大学短期大学部の大船キャンパスとして利用されています。
まとめ
松竹大船撮影所は、邦画が発展していく中で多くの映画を生み出してきました。
撮影所が閉鎖した今も語り継がれ、人々を楽しませている名画も数多くあります。
今はもう撮影所はありませんが、松竹の名画を鑑賞しながら当時の松竹大船撮影所の栄華に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
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